京都大学教育学部紀要28 1982年 pp.301-311 「メキシコにおける二重言語・文化教育の動向」 松久 玲子
スペインによる征服以前からアメリカ大陸に住む原住民の子孫であり、現在でも部族ごとに異なる言語を話し、部族段階または農民段階の自給自足的経済レベルにあるインディヘナスの存在は、統一的国民国家の形成を目論むラテン・アメリカ諸国にとって大きな障害になっていると考えられている。メキシコは1910年のメキシコ革命以降、教育を中心としたインディヘニスモ政策を実施してきた。特に、1940年から今日に至るまで、統合主義の立場が一貫してとられてきた。メキシコにおけるインディヘナスの人口は、全人口の7.8%、約300万人で、このうちスペイン語と土着言語を話す二重言語人口は5.7%、土着言語のみのモノリンガル人口は2.1%を占める。インディヘナス人口は絶対数において増加しているが、モノリンガル人口は減少しつつあり、二重言語人口の占める割合が年々増加している。本論文では、政府主導型の統合政策が教育にとせのように投影され、どんな問題を生み出しているのか、インディヘナスの統合政策の一貫としての初等教育を中心に考えてみる。
メキシコ人類学の父と言われるマヌエル・ガミオの考え方に基づき、1940年に開催された米州インディヘニスモ会議において採択された「統合」主義は、従来の同化政策に対して、インディヘナス独自の言語を尊重し、生活水準の向上を助ける事を主張した。しかし、ガミオの後継者であり、現在のインディヘニスモの第一人者であるアギレ・ベルトランが批判しているように、非インディヘナス集団を代表する国家による統合であり、インディヘナス自身による主体的な運動ではなかった。アギレ・ベルトランは、ガミオの考え方を継承しながら、インディヘナスの統合をめざす「地域統合理論」を提唱し、インディヘニスモ理論を発展させた。
メキシコ社会、インディヘナスとメスティソ部分からなる二元的社会であり、農村という同一環境の下で、メスティソの中心地とそれを衛星のようにとりまく土着共同体からなる「避難地域」から成り立っており、ベルトランは、「避難地域」における二元的構造を調和させる地域レベルの統合が必要であると主張した。このベルトランの考えは、1975、77年のインディヘナス民衆全国会議に強く反映された。農民、労働者との連帯と、その手段であるスペイン語教育の必要性が強調された。しかし、インディヘニスモ理論に対しては、幾つかの人類学、社会学者からの批判があり、例えばギェルモ・ボンフィルは、統合主義はインディオの解放の名の下に、インディヘナスの文化的、社会的制度を破壊し、インディヘナスの非インディオ化をもたらし、最終的にはインディオの消滅を意味するものであると述べている。
1921以降、農村に設置された農村学校は、インディヘナスを国民国家の成員として統合する教育機関であるとともに、土着共同体の生活水準の向上と開発を核としていた。しかし、インディヘナスの就学率は低く、学校が遠距離であること、子供は重要な労働力であること、メスティソとの対立、伝統文化と近代文化の慣習の違いなどを理由に、就学年限は1〜3年程度である。親が子供を通学させる理由は、スペイン語の習得にあり、スペイン語の無知によって取引上の不利益を被らないように、また共同体の村長や役員の資格に識字能力が必要だったからでもある。
非インディヘナス社会からの一方的支配関係は、学校においても反映され、大部分の子供は入学時、ほとんどスペイン語を理解できないにも関わらず、教授用語はスペイン語しか使われず、インディヘナスの子供たちは、教師やメスティソの子供との接触の中で「インディオ」であることへの劣等感を形成される。J.R.シャンピオンは「メスティソ教師と生徒の両方から、伝統的身なり、相対的清潔さの欠如、生活の仕方について恥ずかしい思いをさせられた」と語っている。土着文化およびその価値観の否定の上に、西欧的近代文化が導入され、土着言語にかわるスペイン語化という形で、非インディヘナス文化の優越性が学校文化の中に浸透していたのである。このような経験の累積により、35歳以下の人々は、よその人のいる前で、ナワトル語を話す事を恥じる傾向がある。 教育内容は、公教育省の規定するカリキュラムに従ったスペイン語の読み書き、算数、地理、メキシコ史、音楽、公民が中心であるが、低学年の大部分の授業はスペイン語に費やされる。寄宿学校では、付属農園で放課後、農業、養蜂、養鶏等の実習が行われるが、その規模は小さく農業開発の技術を身につけるものとは程遠い。そして、識字や学校で受けた教育は、結局のところ、農村教師、村の書記、文化促進員等に使う機会が限られ、ほとんど忘れ去られてしまうのである。つまり、土着地域の学校教育は、インディヘナスを旧来の生活様式に引き戻すか、メスティソ的価値観を受け入れ土着共同体から離脱する一部のインディヘナスの個人的統合のいずれかしか生み出すことができなかったのである。
では、農村学校の教育を、インディヘナス側はどのように受け止めているのか。1966年に夏期言語講座に参加したメキシコ市とオアハカ州のインディヘナスのスペイン語の学習動機は、個人的動機、家族の圧力、共同体外への圧力の三つに分類できる。メキシコ市では、共同体外への圧力が最も強く、オアハカ州では家族の圧力が強かった。個人的動機には、漠然としたスペイン語文化圏の優位、あこがれが反映されている。家族の圧力としては、子供への親の期待、スペイン語を話せない親や親類による強制がある。共同体外への圧力としては、よりよい職を求め共同体外へ出るため、村長、文化促進員、教師など非インディヘナス社会との仲介的職を得るためなどがある。メキシコ市とオアハカ州の両グループは、共通して、スペイン語をコミュニケーションの手段として、「道具的基準」から評価し、土着言語を祖先の文化を継承する者のアイデンティティの手段として、次の世代に伝達したいと考えている。学校でのスペイン語教育については、家庭では教そわる機会がないので、スペイン語力の向上に役立ったと判断している。
1940年の第一回米州インディヘニスモ会議以降、「土着文化の尊重」の具体策として、教育における土着言語の使用、二重言語教育の試みが様々な形で、実験的になされた。しかし、それが学校教育の中に正式に取り入りられたのは1964年からであり、初等前教育と初等教育低学年での児童のスペイン語化のための補助手段という色彩が強かった。二重言語教育の目的は、あくまでも国民的統一のためのインディヘナスのスペイン語化であり、スペイン語と土着言語の併用もしくは平行的使用ではなかった。
1970年代半ばに、1968年に端を発したインディニスモ批判を背景に、公教育省は二重言語教育に加え、二重文化教育を提唱した。ここには、二重言語教育は母語と国語の二言語を最大限に利用し、基礎的学習に最大の効果をあげる、教育における生徒の母語使用はよりよい信頼と意志疎通の環境を作り、二重文化教育は各エスニック・グループが言語や音楽、習慣などに独自の文化的価値を持つことを知る必要があるという意識を獲得すると規定されている。これらの規定は、実は従来の二重言語教育の範囲を出ていないのだが、現実的には二重言語教員と文化促進員の増加といった重要な変化(10年間で、凡そ3〜4倍)をもたらした。しかしながら、二重言語・文化教育のための指導書、教科書が十分完備されていない上に、二重言語教員、文化促進員の訓練の未熟さもあって、それが二重言語文化教育の内容的充実を保証するものであるかどうかは疑わしい。また、インディオの農村の多くの教師は、自らの民族的または階級的アイデンティティに必ずしも確信を持っていない。監督機関に、INI(国立土着民研究所)と農村学校担当局の二系統があるが、スペイン語で授業をおこなっても支障のない地域では、INIの活動は制限され、二重言語・文化教育は見られないなどの問題点もある。
今、インディヘナス出身の教師の間から新しい運動が生まれつつある。1976年に全国インディヘナス教員集会が開かれ、77年に全国二重言語インディヘナス専門職同盟が結成され、80年に第一回ANPIBAC会議か開催された。ANPIBACは、既成のインディヘニスモ政策をインディヘナスの不参加と批判し、根底に文化的優越性と劣等生の考え方を反映し、二重言語教員や文化促進員を真の同僚としてでなくデータ収集者として利用するにとどめていると述べた。そして、インディヘナス問題を生み出しているのは、450年間の搾取と差別であり、エスニック。グループが経済力をつけ、文化的再評価を行い、変化の過程に実際に参加することだと述べた。ANPIBACの一連の運動は、非インディヘナス主導の政策を、インディヘナス自身の手に取り戻し、インディヘナス自身による運動の芽を生み出したと言えよう。