文献要約

京都大学教育学部紀要28 1981年 pp.117-127   
「在日朝鮮人教育における民族学級の位置と性格
 −京都を中心として−」
中島 智子

《要旨》

 朝鮮人を対象に朝鮮語その他を習得させることを目的として、日本の公立学校に設置された民族学級の設置と衰退に関する史的考察。京都府(おもに京都市)を中心に、滋賀県、大阪府を研究対象地域とする。

〈設置に至る経緯〉

 戦後の朝鮮人学校の閉鎖改組に伴い、京都では、府下12校(認可9校、無許可3校)に学ぶ児童生徒1000余名が日本の学校に転学させられ、民族教育の機会を奪われた。1948年5月の府教育部長との覚書には、「放課後休日等に朝鮮人学校に在学できること、日本人児童生徒とすべて平等な取り扱いを受けること、義務教育を受けている朝鮮人児童生徒のみをもって学級を編制し、朝鮮独自の教育をすることができること」が認められていたが、占領軍及び府教育委員会は施設不足や教育の「機会均等」、「政治的意図」などを理由に当初はこれを認可しなかった。
 49年10月、文部省は談話の形で、外国語や自由研究の時間の利用を示唆。11月には、学力補充その他やむを得ない事情のある限りは、当分の間特別の学級又は分校を設けることは差し支えがないとして、限定付きの朝鮮人のみの特別学級の設置を認めた。京都でも、51年より、六つの小学校で課外授業を行うことを承認した。その後、朝鮮人多住地域を中心に、特別学級1校、抽出学級(正規の授業時間内に民族教育科目が組み込まれているもの)6校、課外授業2校が発足した。ただし、市教育委員会は民族学級設置には全く積極的ではなかった。
 ただ一校設置された特別学級は、3・4年と5・6年の複式学級で、当初、全校198名中140名が希望した。各学級には、朝鮮人と日本人の教師がそれぞれ一名ずつ配置され、授業用語も日本語と朝鮮語が両用された。国語は日本語と朝鮮語が各5時間、社会は各3時間(5・6年学級では4時間)、音楽は各1時間であるが、算数・理科・図画・体育は日本語のみであった。また、学級への参加は、児童の希望に委ねられていた。
 大阪でも府下に33校の課外学級が設置され、講師36名が採用された。同様に、滋賀県にも17校が設置され、午前中は一般の学級で授業を受け、午後は朝鮮人のみの学級を編成する形がとられた。
 とはいえ、民族学級の設置は先の覚書によっているために基盤が弱く、また行政と朝鮮人側とでは認識にも大きな開きがあり、学校内での民族教育擁護の思想に裏付けられた正当な位置が確保できず、その位置は不安定で、性格も曖昧なものにならざるを得なかった。

〈衰退に至る経緯〉

 全国の民族学級設置校数は、1953年〜54年が95校とピークをきわめ、58年63校、61年50校、60年代半ばには30校と激減した。激減した理由としては、 朝鮮総連が自主校の発展に力を入れ、57年より開始された本国からの教育費の送金がそれまた可能にしたこと、 65年の日韓条約の締結により、協定永住権を取得することが可能になり、在日朝鮮人の「在日」意識に分極化が生じ、朝鮮人学校に行く者と日本の学校へ行く者との間の分岐を深めたこと、 行政当局及び学校が民族学級の存続及び質的拡充に積極的な保障条件を与えてこなかったこと、 65年に文部省が、日本の学校における朝鮮人教育は日本人子弟と同様に取り扱うものとし、教育課程の編成・実施についての特別の取り扱いをすべきではない、という通達を出したことが挙げられる。
 京都でも、朝鮮民主主義人民共和国への帰国事業の開始(1959年)に伴う民族教育熱の高まりが朝鮮人学校への転学者を増やし、民族学級を希望する児童数の減少を招いた。その他、講師が総連系であることへの反発や、民族学級への参加による学力の低下や差別といった問題もあった。大阪や滋賀県でも、講師不足や児童の転学を大きな要因とし、民族学級は急速に衰退していった。


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